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zoom RSS ”寄付”という資本コスト

<<   作成日時 : 2011/12/16 03:09   >>

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今年は東日本大震災もあって例年以上に”寄付”という言葉がお茶の間を賑わせていた年となった。

「情」に訴える寄付の脆さ
一方で、寄付はその性質上募るのがなかなか難しい側面もある。単にお金が集まりにくいとかそういう意味だけではなく、ステークホルダーと当事者を結びつけさせる力が、場合によっては(いや、往々にして)営利企業のそれよりも難しかったりする。

ユニセフとかはもちろんのこと東日本大震災にしろ寄付を募る時に一番よく見受けられるのが人々の「情」に訴えかける方法。画とされている困っている方々には申し訳ないが、これは一見すると寄付を集める側からすると手っ取り早い。新聞報道でもえくぼ記事と揶揄されてもいる通り、角も立たずに感心を集められるツールとしてメディアに悪用されてしまってもいる。

「人の困難をカネ集めや視聴者集めの餌にするな」という批判は、とはいえこういった発信が世間の関心を当事者に向けてプラスの力に働く場合もあるので不問にする。では何が問題かというと、単に「人の情」に訴えかけるものは全くもって長続きしない、言い換えると本来手を差し伸べようとした人たちをさらに困難な状況に追い込むことすらあり得るからだ。

人が他人に対して情を抱けるキャパというのは所詮有限である。「情」にドライブされて今までユニセフに寄付してた人は、特に今年のように自分にとってより身近なところで悲劇が起きるとその興味対象がそちらに移ってしまったことだろう。さらにもしその人の近しい人が病気などでお金が必要な状況が生じたとしたら、またそちらにサポートのキャパがほぼ全部振り分けられることになるだろう。

NPOなど寄付を主な収入としている運営者は特にこの点を認識する必要がある。寄付を頂いた対価として寄付者が求めていることは何か?「もらったらハイおしまい」か?単に何かかわいそうな状況を毎回レポーティングすることだけか?(もうしそうだとしたら前述の通り単なる人の心の中の”可哀想”に反応する領域という狭いパイの奪いあいになるだけだ。)従って、少なくとも私はLiving in Peaceでの児童養護施設向けの寄付プログラムを売り込むときにも、「子どもが可哀想」といった類の謳い文句は一切していない。事実、別に「可哀想」だとは自分自身思ってないので。
参照過去ログ↓
2010/11/04 同じ社会に生きる仲間たちへ
2011/09/15 行政に任せるべきこと、自分達で手を動かさなければいけないこと。
2010/04/10 この国に生きるコスト vol.3 

「そこに困っている人がいるからさ」だけではスケール拡大は無理
世の中に困っている人、お金を必要としている人はゴマンといる。単に「情」に訴えかけるだけでは、「なんで困っている人はたくさんいるのに君にだけ寄付しなきゃいけないの?」というツッコミに対してあまりに無力だ。

コーポレートファイナンスの基礎としても資本コスト(出資と融資で資金を調達するときのトータルのコスト)という概念が出てくるが、寄付のそれはまた従来の資本コストとは違った側面があるのだろう。営利企業であれば出資でも融資でも”リターンはカネで”という自明すぎる前提があるが、寄付の場合はそれすらも不透明である。日本のプライベートバンク業界でトップクラスの営業マンの方が「寄付したい人はいっぱいいるよ、でもお金を出したらどうなるのか、何が良くなるのかが分からないと、少なくとも私のお客さんは絶対に出さない。」と言っていたことを思い出した。

勃興しているNPOなどにとって、情以外で寄付者のメリットに訴えかけることができるか否かがポイントじゃないかと思う。そう考えると、営利企業って人を「情」ではなく「利害関係」という持続可能な関係でつなぐすごい仕組みなんだな、と今更ながら実感した。

そう、当たり前だけど、営利ビジネスだって立派な社会貢献なんだよ。ただ、「子どもの教育」のようにお金の出し手にとってリターンがどうしても短中期的・あるいは金銭的に表しにくい分野に限ってのみ、手段としてのNPO等の非営利系の枠組みが有効となりえるのだと思う。このへんについてはまた後日。

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